なぜ「堀止」という名前?和歌山城の外堀との関係
和歌山市には、昔の町の姿や役割を今に伝える地名が数多く残っています。
その中でも、特に由来を想像しやすいようで、詳しくはあまり知られていないのが「堀止」です。
「堀が止まった場所だから、堀止なのでは?」
名前からそのように想像した方もいるかもしれません。
実はそのとおり、堀止という地名は、和歌山城の城下町を守るために造られた「外堀」と深く関係しています。
今回は、堀止という名前がどのように生まれたのか、江戸時代の和歌山城下町の様子とともに見ていきましょう。
和歌山城の周りには、いくつもの堀があった
現在も和歌山城を訪れると、石垣の周囲に水をたたえた堀を見ることができます。
城の周囲に造られた堀には、敵が簡単に城内へ入れないようにする役割がありました。
城に近い堀は「内堀」、その外側に設けられた堀は「外堀」と呼ばれます。
外堀は、城そのものだけでなく、城の周囲に広がる武家屋敷や城下町を守るための防衛線でもありました。
江戸時代の和歌山城下町は、和歌山城を中心として大きく発展しました。
城の近くには紀州藩に仕える武士たちの屋敷が置かれ、商人や職人が暮らす町人町も形成されていきました。
町が広がるにつれて、守るべき範囲も次第に大きくなっていったのです。
城下町が南へ広がった
江戸時代の初め、和歌山の城下町は和歌山城の北側や西側を中心に整備されていました。
しかし、その後、城下町は次第に南の方向へも広がっていきます。
現在の吹上や堀止東周辺には、武家屋敷が置かれるようになりました。
ところが、町が城の外側へ広がると、新しくできた武家屋敷の区域は、従来の堀よりも外側に位置することになります。
そこで、城下町の南側を守る新たな防衛線として、外堀を造る計画が立てられました。
この堀は、和歌山城の南側に造られたことから「南外堀」とも呼ばれます。
和歌川と水軒川を結ぶ計画だった
計画された南外堀は、城下町の東側を流れる和歌川と、西側を流れる水軒川を結ぶ、大規模なものだったとされています。
現在の地図だけを見ると、堀止と和歌山城は少し離れているように感じるかもしれません。
しかし、江戸時代の城下町は、城だけが独立して存在していたわけではありません。
武家屋敷、町人町、道路、河川、堀などを含めた町全体が、城を中心に計画的につくられていました。
南外堀も、和歌山城を取り囲む防御施設の一部として計画されたものです。
もし計画どおりに完成していれば、東の和歌川から西の水軒川まで水路が続き、城下町の南側を大きく区切る堀になっていたと考えられます。
堀は神明神社付近で止まった
南外堀の工事は進められましたが、最後まで完成することはありませんでした。
堀は現在の堀止西にある神明神社付近まで掘られたものの、その先の工事が中止されたと伝えられています。
一度掘られた国道42号より西側の部分についても、その後、埋め戻されたとされています。
つまり、堀の工事が途中で止まった場所。
それが「堀止」という地名につながったのです。
非常に分かりやすい地名ですが、その背景には、和歌山城下町を守るための大規模な都市計画がありました。
現在は住宅や道路、お店が並んでいる場所に、かつて堀を造ろうとしていた人々がいたと考えると、普段の町並みも少し違って見えてきます。
なぜ工事は中止されたの?
では、なぜ南外堀の工事は途中で止まったのでしょうか。
残念ながら、その理由を明確に示す資料は確認されていないとされています。
工事の規模や費用、水を引くための高低差、周囲の地形など、さまざまな事情があった可能性はあります。
ただし、確かな根拠がない以上、「これが理由だった」と断定することはできません。
歴史には、資料が残っていないため、はっきりと分からないこともあります。
分からない部分を想像しながら、当時の地形や町の様子を考えることも、歴史を楽しむ方法の一つです。
「この先まで掘ることが難しかったのだろうか」
「町の計画が途中で変わったのだろうか」
堀止の町を歩きながら、そんな想像をしてみるのも面白いかもしれません。
堀は防御だけのものではなかった
城の堀というと、敵の侵入を防ぐためのものという印象が強いでしょう。
もちろん、城や城下町を守ることは、堀の重要な役割でした。
一方、戦の少ない時代が続くと、堀や河川は物を運ぶための水路としても利用されるようになります。
現在はトラックや自動車で多くの物が運ばれますが、江戸時代には船が重要な輸送手段でした。
和歌山城周辺の堀は、和歌川や紀ノ川などの水路ともつながり、物資を運ぶために役立っていました。
堀は単なる城の防御施設ではなく、城下町の暮らしや経済を支える役割も担っていたのです。
南外堀が計画どおり水軒川までつながっていれば、町を守るだけでなく、水上交通にも利用された可能性があります。
造られた堀は長く町に残った
南外堀は計画どおりには完成しませんでしたが、実際に造られた部分は、その後も長く残りました。
和歌山県立博物館の解説によると、堀の埋め立て工事が始まったのは1918年、大正7年のことです。
江戸時代に造られた堀が、大正時代まで町の中に残っていたことになります。
現在の堀止の町並みからは、かつて水をたたえた堀があった様子を想像するのは難しいかもしれません。
しかし、今からそれほど遠くない時代まで、地域の人々は堀のある風景を見ながら暮らしていたのです。
もし昔の堀止を知る方の話や写真が残っていれば、現在とは違う町の姿が見えてくるかもしれません。
堀がなくなっても、地名は残った
堀の多くは埋め立てられ、現在ではその姿を見ることができません。
それでも、「堀止」という名前は地域に残り、今も住所、交差点、バス停、学校やお店など、さまざまな場所で使われています。
地名は、場所を区別するためだけの記号ではありません。
その土地の地形、歴史、産業、人々の暮らしなどを伝える役割も持っています。
堀の工事が止まったという出来事が、何百年もの時を越えて地名として残っていることは、とても興味深いことです。
建物や風景が変わっても、地名の中には昔の町の記憶が残り続けます。
堀止という名前は、和歌山市が城下町であったことを現代に伝える、大切な歴史の手がかりなのです。
現在の町から昔の堀を想像してみよう
現在の堀止は、国道42号を中心に住宅、商店、医療機関などが並ぶ、暮らしに身近な町です。
交通量が多いため、車やバスで通り過ぎることが多いかもしれません。
しかし、神明神社周辺などをゆっくり歩き、昔の地図と現在の地図を見比べてみると、町の見え方が変わってきます。
「この辺りで堀が止まったのだろうか」
「昔はどの方向に水が流れていたのだろう」
「堀の周りには、どのような屋敷が並んでいたのだろう」
目の前に堀が残っていなくても、地名や道の形、神社、水路などを手がかりに、昔の風景を想像することができます。
歴史を知ってから町を歩くと、いつもの道路や交差点も、一つの史跡のように感じられるかもしれません。
「堀止」は城下町・和歌山の記憶
堀止という地名は、和歌山城下町の南側に新しい外堀を造ろうとした歴史から生まれました。
和歌川と水軒川を結ぶ計画で工事が進められましたが、神明神社付近で止まり、最後まで完成することはありませんでした。
その「堀が止まった場所」が、堀止です。
現在、堀そのものはほとんど見えなくなりました。
しかし、地名は今も残り、かつて和歌山が大きな城下町だったことを私たちに伝えています。
普段何気なく口にしている町の名前にも、その土地で暮らした人々の歴史が刻まれています。
今度、堀止を歩く機会があったら、現在の町並みの向こうに、江戸時代の外堀を思い浮かべてみてください。
いつもの風景の中に、今まで見えていなかった和歌山の歴史が浮かび上がってくるかもしれません。
次回予告
次回は、
「和歌山・堀止の神明神社を訪ねて|外堀の終点に残る歴史」
をテーマに、堀止の名前と関係が深い神明神社や、その周辺に残る歴史の手がかりをご紹介します。
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