和歌山市堀止西の住宅地に、木々に囲まれた神社があります。
その名は「神明神社」。
大きな道路から少し入った場所にあり、鳥居をくぐって石段を上ると、周囲の町並みとは少し違う、静かで落ち着いた空気に包まれます。
神明神社は、地域の方々に長く親しまれてきた神社です。
そして、この神社の周辺は、和歌山市の「堀止」という地名の由来を考えるうえでも重要な場所です。
江戸時代、和歌山城下町の南側を守るために計画された外堀は、神明神社付近まで掘られたと伝えられています。
今回は、堀止の神明神社を訪ねながら、この場所に残る歴史をたどってみましょう。
神明神社があるのは、和歌山市堀止西二丁目です。
現在の堀止周辺は、住宅や医療機関、商店などが集まる、暮らしに身近な地域です。
交通量の多い国道42号からも近く、毎日多くの車や人が行き交っています。
そのような町の中にありながら、神明神社の境内には大きな木々があり、穏やかな時間が流れています。
通勤や買い物で近くを通っていても、境内まで入ったことがない方もいるのではないでしょうか。
鳥居の先に続く石段を一段ずつ上っていくと、にぎやかな道路から少しずつ離れ、地域の歴史の中へ入っていくような感覚があります。
「神明神社」という名前は、全国各地で見ることができます。
一般に神明神社は、伊勢神宮の内宮に祀られている天照皇大神をお祀りする神社です。
堀止の神明神社でも、天照皇大神が主祭神として祀られています。
また、豊受皇大神も配祀されています。
天照皇大神は、日本神話に登場する太陽の神様です。
豊受皇大神は、食物や産業をつかさどる神様として知られ、伊勢神宮の外宮に祀られています。
そのため、堀止の神明神社は、和歌山市内にある身近な「お伊勢さん」として、地域の人々の信仰を集めてきました。
家内安全、商売繁盛、地域の平安などを願い、長い間、多くの人がこの場所を訪れてきたのでしょう。
神明神社に伝わる由緒によると、神社は古くから現在の場所にあったわけではないとされています。
もともとは、吹上の山に鎮座していたと伝えられています。
その後、江戸時代初期の1628年、紀州徳川家初代藩主の徳川頼宣によって、現在の場所へ移されたとされています。
移された理由は、和歌山城下町の「裏鬼門」を守るためでした。
鬼門とは、古くから災いが入ってくる方角として意識されてきた北東の方向を指します。
その反対側にあたる南西は「裏鬼門」と呼ばれ、同じように大切にされてきました。
神明神社は、和歌山城と城下町の裏鬼門を守る神社として、この地に祀られたと伝えられています。
つまり、神明神社は地域の人々の暮らしを見守るだけでなく、城下町・和歌山全体を守る役割を担っていたのです。
神明神社には、さらに古い時代の伝承も残っています。
社伝によると、1585年に豊臣秀吉がこの神社を訪れ、紀伊国の平安と武運長久を祈願し、矢に願書を添えて奉納したと伝えられています。
1585年は、豊臣秀吉が紀州攻めを行った年です。
当時の紀州には、雑賀衆や根来衆など、独自の力を持つ人々がいました。
秀吉は紀州を平定した後、和歌山城の築城を弟の豊臣秀長に命じたとされています。
神明神社に伝わる秀吉の伝承は、和歌山城が造られる前後の大きな歴史の動きと、この地域との関わりを感じさせます。
ただし、これは神社に伝わる社伝に基づくものであり、史実として確認できる部分と伝承として受け継がれている部分を分けて考える必要があります。
それでも、何百年もの間、この地域で語り継がれてきたこと自体が、神明神社の歴史の深さを物語っています。
徳川頼宣の時代になると、和歌山城下町の整備が進みました。
城の周辺には武家屋敷や町人町が造られ、和歌山は紀州藩の中心として発展していきます。
城下町が大きくなるにつれて、町を守る範囲も広がりました。
現在の吹上や堀止東周辺にも武家屋敷が置かれ、その外側に新たな防御施設が必要になったのです。
そのような時代に、神明神社は城下町の南西側に移され、裏鬼門を守る神社として祀られました。
神社を移した時期と、城下町が南側へ広がっていった時期は重なっています。
神明神社の遷座は、単なる神社の移転ではなく、和歌山城下町の拡大や都市計画とも関係する出来事だったと考えられます。
城下町が南へ広がると、その外側を守るために「南外堀」が造られました。
南外堀は、和歌山城下町の東側を流れる和歌川から水を引き、現在の堀止方面へ向かって延びていました。
さらに、その堀を西側の水軒川までつなぐ計画も立てられました。
計画どおりに完成していれば、和歌川と水軒川が堀によって結ばれ、城下町の南側を大きく囲む防衛線になっていたと考えられます。
工事は現在の神明神社付近まで進められたと伝えられています。
しかし、堀は最後まで完成しませんでした。
幕府から大規模な工事であることを問題視され、工事が中止されたといわれています。
また、現在の国道42号より西側は、一度掘られた後に埋め戻されたとされています。
こうして、堀の工事が止まった場所が「堀止」と呼ばれるようになりました。
「神明神社が外堀の終点だった」と聞くと、神社のすぐ前まで大きな堀が完成していたように想像するかもしれません。
しかし、歴史を正確に伝えるためには、少し注意が必要です。
和歌山県立博物館の解説では、外堀は「現在の神明神社のあたりまで掘られた」とされています。
その一方で、南外堀として長く残った部分は、現在の堀止交差点付近までだったとする地域史の解説もあります。
神明神社付近まで掘る計画があり、実際に工事が進められたものの、その西側は埋め戻された可能性があります。
したがって、神明神社を「現在まで残った堀の終点」と断定するよりも、
「外堀が神明神社付近まで計画され、工事が進められた場所」
と捉える方が、歴史の実態に近いでしょう。
神明神社周辺は、完成しなかった大規模な外堀計画の記憶を伝える場所なのです。
神明神社の一つ北側の細い道には、「平久橋」と呼ばれる小さな橋があります。
橋には、江戸時代後期にあたる「文政十二年」の文字が残っていると紹介されています。
この橋を見て、
「ここまで外堀があったのではないか」
と思う方もいるかもしれません。
しかし、平久橋は南外堀そのものに架けられた橋ではなく、神明神社の北側にあった水路に架けられた橋と考えられています。
この水路は、南外堀の工事によってできた地形や排水と関係していた可能性も指摘されています。
大きな堀は埋められてしまいましたが、小さな橋や水路、道の形をたどることで、昔の町の姿を想像できます。
平久橋は、堀止の歴史を歩いて楽しむときに、ぜひ注目したい場所の一つです。
完成した南外堀の一部は、江戸時代が終わった後も残っていました。
和歌山県立博物館によると、堀の埋め立て工事が始まったのは1918年、大正7年です。
つまり、今から百年ほど前まで、堀止周辺には実際に堀のある風景が残っていたことになります。
現在は道路や住宅、商店が並んでいるため、かつての姿を想像するのは簡単ではありません。
しかし、当時の地域の人々にとっては、堀は日常の風景の一部でした。
子どもたちが堀の近くを歩き、住民が橋を渡り、周辺に家や店が並んでいたことでしょう。
堀は埋め立てられましたが、「新堀」「堀止」などの地名には、現在もその記憶が残っています。
神明神社を訪れると、まず印象に残るのが境内の木々です。
周囲には住宅や道路が広がっていますが、境内に入ると緑が多く、町の中に残された小さな森のようにも感じられます。
長い年月、同じ場所で地域を見守ってきた木々を眺めていると、この場所に積み重なった時間の長さを感じます。
江戸時代には、近くで外堀の工事が行われていました。
大正時代には、その堀が埋め立てられました。
その後、道路が整備され、住宅や店舗が増え、現在の堀止の町が形づくられていきました。
町の風景が大きく変わっても、神明神社はこの場所に残り、地域の人々の暮らしを見守り続けてきました。
神明神社の境内には、本殿のほかにも複数の小さな神社があります。
稲荷神社、金刀比羅神社、天満神社、猿田彦神社、恵美須神社など、暮らしや商売、学問、道中安全に関わる神様が祀られていると紹介されています。
本殿だけを参拝して帰るのではなく、境内をゆっくり歩き、それぞれの小さな社を見て回ると、神明神社が地域のさまざまな願いを受け止めてきたことが分かります。
商売がうまくいきますように。
家族が元気で暮らせますように。
試験に合格できますように。
安全に旅ができますように。
時代が変わっても、人々が願うことには共通する部分があります。
神明神社は、地域の人たちの願いや祈りが積み重なった場所でもあるのです。
神明神社を訪れるときは、参拝だけでなく、周辺の町も一緒に歩いてみることをおすすめします。
まず鳥居の前で一礼し、石段をゆっくり上ります。
境内では、本殿や境内社、大きな木々などを見て回ってみましょう。
参拝後は神社の北側へ歩き、平久橋や周辺の水路、道の形にも注目してみてください。
さらに堀止交差点の方向へ歩けば、南外堀がどのように延びていたのかを想像できます。
昔の地図を手元に用意して、現在の地図と見比べながら歩くのもよいでしょう。
ただし、神社周辺には住宅が多く、道幅の狭い場所もあります。
地域の方の生活に配慮し、静かに歩くことが大切です。
また、石段では足元に注意し、暑い季節には無理をせず、水分補給を心がけてください。
歴史を学ぶというと、博物館へ行ったり、遠くの有名な史跡を訪ねたりすることを思い浮かべるかもしれません。
しかし、歴史は私たちが暮らしている町の中にも残っています。
神明神社の鳥居や石段。
境内の大きな木。
近くに残る小さな橋。
「堀止」という地名。
一つひとつは、普段何気なく見ているものかもしれません。
ところが、その背景を知ってから眺めると、すべてが和歌山城下町の歴史につながって見えてきます。
身近な地域を歩くことは、特別な道具を必要としない健康づくりにもなります。
歴史を探すという目的があれば、いつもの散歩も少し楽しくなるのではないでしょうか。
堀止の神明神社は、天照皇大神を祀り、地域の人々に親しまれてきた神社です。
江戸時代には、和歌山城下町の裏鬼門を守るため、現在の場所に移されたと伝えられています。
その後、城下町の南側を守る外堀が神明神社付近まで計画され、工事が進められました。
しかし、堀は最後まで完成せず、工事が止まったことが「堀止」という地名につながりました。
現在、外堀の姿を直接見ることはできません。
それでも、神明神社や平久橋、周辺の道、そして地名の中には、昔の城下町の記憶が残っています。
神明神社を訪れることは、神様にお参りするだけでなく、堀止という町の歴史に触れることでもあります。
次に神明神社の鳥居をくぐるときは、その近くまで外堀を造ろうとした江戸時代の人々の姿を、少し想像してみてください。
静かな境内の向こうに、今まで見えていなかった堀止の風景が浮かんでくるかもしれません。
次回は、
「和歌山・堀止を歩こう|神明神社からたどる歴史散歩」
をテーマに、神明神社を出発点として、堀止周辺の歴史や町の風景を楽しむ散歩コースをご紹介します。